最近、書店で東大生のノートの取り方をまとめた本が売り上げ上位を占めている。内容を見てみるときれいなノートの取り方として「見出しを付ける」などという項目をあげているのだが、今の40代以降で学力が比較的高めだった人は「こんなの自分たちも普通にやっていたよ」という感想を持つ方も多いのではないだろうか。
ところが、実際に子供達を指導して感じるのは、今の学生はノートを取るのが下手で、このレベルのことでも言われなければやれない子が非常に多いと言うこと。したがってこういった本が売れているのは、東大という言葉に食い付いているだけではなく、子供達へのノートの取り方の指導が徹底されていない現状がそのまま映し出されているのではないかと考えている。
ただ、実際に本の中に例として書かれているノートを見て「きれいに丁寧にノートを作れば学力が向上するか」というと、その限りではない。自分はたいていの子に「理科・社会・英語」のノートを作らせているのだが、学力が向上していく子にはそのノートの作り方に一種の共通点があると感じている。それは「自分の覚えられることを過不足なく、自分の覚えやすい形にまとめる」ということ。まだまだ覚えられる能力があるのに、面倒くさがって雑なノートを作る子はもちろん学力が向上していかないが、だからといって自分が覚えられる範囲を超えて何でもかんでもノートに書き込んでしまう子も実は学力は伸びない。覚えられる量にも個人差があるので、生徒によっては結構細かいところまで書き込んだり、ちょっと大雑把なノートになったりするが、その子にとっての適正量に見合ったノートを作る子は学力が伸びるのだ。
それでは、どういった経緯で自分の適正量ノートを作るようになっていくかというと、まず「書いてあることや先生の言ったことを片っ端から書き始める」ことからスタートする。ところが量をこなしていくうちに「手抜き」が発生し、自分で書いても意味が分からなかったり、あまり細かすぎて覚えられないという部分をカットしていくようになる。そうやって適正量に収束していくのだ。さらに、何らかのタイミングで成績が上がったりすると、そこから少しずつノートに書き込む内容が細かい部分まで広がり、成績が上昇傾向に転じていく。こういった手順で、学力が高まっていくようになる。今の生徒がノートをきちんと取れないのは、このスタート段階の「何でもかんでも書き込む」というところの指導が雑になっているのではないか。
また、ノートに書き込む量の多少は、その子の国語力に依存している。東大生のノートが細かくきれいなのは「国語力が高く、書いてあることや先生の話を理解し、自分の中で咀嚼している」から出来る事。だから、見た目だけを真似しても意味はない。大切なのは、漢字の意味を覚え、そこから何を書いているのかを読みとったり、説明文の内容を把握する練習をして、国語力をアップさせること。さらに付け加えると、説明文は論理的思考が要求されるため、数学の学力も上げておくことが必要になる。
だから、たかがノートと侮ってはいけない。上記で話したように、きちんとしたノートを取るにはそれなりの学力が必要だし、きちんとしたノートを取れれば、それによって学力も上がっていくことが分かっている。したがって、ノートと学力は「単に一方を良くするための手段」と考えるのではなく「両輪」の関係として捉えておくことが必要だろう。ノートだけきちんと取れば学力がついて来るという指導をすると単にノート取り学生を産むだけだし、覚えていればノートはいらないというのも学生の学力向上の可能性を低くしてしまう。もし、そういった指導をしてしまった場合、それで成果が現れたとしても「その子の最大限の成果」を引き出せるものにはなっていないと考えた方が無難だ。
そして、東大生のノートは、単に勉強できるように真似をするためのものではなく、人から言われなくても自分独自のノートが作れるようになるための、自分の学力が追いつく先の目標と捉えるのがいいだろう。
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