これも2015年に書いた内容です。
いまだに、小中学校の塾のテキストには、この手の文章が載っていますが、自分は、こういう考え方に疑問を持っています。
<「ゆとり」以前の論調>
パソコンが登場して「ゆとり」以前の論調は「記憶はパソコンに任せて、人間はそれを基にした思考を行おう」というものでした。
いわゆる「有識者」と言われる人たちの論調の多くは「知識と教養の区別をつけよう〜知識を持っているだけでは教養とは言わない」「覚える事に必死になるのは人間を機械にしているようなもの」という方向に向かっていました。
この当時の有識者の発想というのは「人間の頭を工場にたとえると、雑然と物事が並んでいて作業場を少なくするより、必要最低限の知識にとどめて、脳を広く使えるようにし、より色々な発想をしやすくしよう」というものだったと思っていてもいいと思います。
ところが、残念な事に、何か物事を行うときに「邪魔になる知識」というものはありませんし、知識が思考を妨げるという事自体もあり得ません。例えが悪すぎたとしか言いようが無いですね。
実際には、人間の頭を工場に例えた場合、「知識はより有用な道具や機械」と考えた方が近いと思います。マイナスドライバーしか持っていない者がプラスのねじを回すより、サイズの合ったプラスドライバーを持っていた方が作業が効率よく進むのと似ていると思います。「方程式の計算」を例にとっても「分母を払う」という計算知識がある方が「分母を払う」という知識の無いものが計算するより早く・正確になると思いますし、「服の染み抜き」の方法を知っていれば、万が一パーティーの会場で汚してしまったときに咄嗟の対応が出来ますよね。汚してしまった服を着たまま恥ずかしい思いをしなくて済みます。
こうやって考えると、思考を行う場合、まず、最低限、自分の頭の中に知識の「目次」とか「リスト」の様なものを蓄えておき、より正確に正しい知識を求められたときに、パソコンを使うという流れになろうかと思います。そして、それは「何か不確かなものが出てきたときに辞典・事典で調べよう」という行動を取るのと同じと考えればいいわけです。要するに、単純にペーパーがパソコンに変わっただけ。結局、思考力を身につける方法に関しては、昔も今も変わらないと思った方がいいでしょう。
ですから、「考えろ」を押し進めるような教育は、子供達に取ってはあまり良いことではない、ということ。少なくても「義務教育」段階で、頭の中に知識の「リスト」を整理して作れるような指導こそ、今、求められている指導ではないかとおもうわけです。
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