top of page
  • markun5

「自主性」や「自立心」と「放任」は、どこが違うんだろう



 「自立心」や「自主性」ということは、本来、とても大切なものであると思いますが、それを推進していく教育を実践していった結果が「青少年の凶悪犯罪の増加」であったり、「高卒者の就職率の低下(これは単に不況という事だけではなく、企業の方が「仕事が長続きしないので・・・」と高卒者を敬遠しつつある)」であったりと、実状は少しも好ましい方向に向かっていないようですね。実際に釧路では高卒の正規雇用が3割程度だったりします。

 そして、一部の人は、「自立心」や「自主性」と「放任」を取り違えているなどと述べていますが、どこに一線をひいて「自立心」や「自主性」と「放任」とを画せばいいのかということになると、学校の先生の書いている本を読んでも「私はこんなことをやっています」調の、上っ面を撫でたような話ばかりで、根本的な回答として考えたときに、どうもピンとくる解答がないんですね。そこで、ここでは、まず、どこで境界線を引けば良いのかというテーマで話を進めていく事にしますね。


 それで、まず、「道徳」の事についてなのですが、今まで「道徳」というのは、善と悪の判断がしっかりしていて、「これをしてはいけません」という約束がハッキリしていたんです。そして、その約束事にしたがって子供達はいろいろなことを考え、実践していったはず。例えば、「他人の迷惑になることは、してはいけません」という約束が存在し、その約束にしたがって、子供達が自分で考え判断しながら、また、周りの人から教えられながら、「バスに乗るときのマナー」などが、キチンと子供達の中に定着していったということです。

 ところが最近では、別の項にも書いた「ノーチャイム」などの実践にみられるように、その最初の約束がキチンと定着しているのかどうか怪しい状態で、子供達の自主性が押し進められている気がするんですね。すなわち、子供達が自分で勝手な規準を作り、それに沿っていればオーケーということなんだそうです。実際に附属中であったのは「休み時間が終わっても、何か用事があれば、すぐに席につかなくてもいい」とか。これってどうなんでしょうね。

 そして、もう一つは「個性」という考え方。要するに子供達のそれぞれに持っている独自の考え方を尊重するという考えかたなんだけど、ここにも落とし穴があると思う。

 それで、ここまでの状況から、モデルケースを想定してみるけど、例えば、「困った人がいたら助けましょう」という約束がキチンと決められ、そこで、先生が子供達に「おばあさんが、荷物が重くて横断歩道が渡れず困っていました。みんなならどうしますか?」という質問をしたとしよう。すると子供達は、「荷物を持ってあげる」とか、「手を引いて一緒に渡る」とか答えてくると思うんだよね。

 ところが、実際に授業で行われている状況では、最初の「困った人がいたら・・・」の約束がハッキリしないまま、「おばあさんが・・・・困っていました」の質問をいきなり子供達にぶつけるところからスタートし、子供達の答えが「荷物を持ってあげる」でも「そんなのめんどくさいから無視する」でも、個性を尊重するという形で是認してしまっているという事になっていたんです。


 そして、おそらくは、お母さん達が期待している「自主性」や「自立心」というのは、前者のように、約束がしっかりしている状況で物事を自分で判断し行動していくという方であり、なんの約束もない状態で自由な事をするという後者の方ではないと思いますが、いかがなものでしょうか?


 で、実際、これは、道徳だけではなく、主要教科の中でもその方向性が伺えるんです。例えば、「答えを出さない授業」というのがそれで、子供達にいろんな場合を想定させるのは良いんだけど、その後、キチンと答えを出さない。先生に言わせれば「どれでも正解」という事なんだが、果たしてこれが、良いことなのでしょうか?

 実際に附属であった例としては、理科の時間は理科の時間で、「春蒔きの種」を子供に与え、いつ蒔いてもいいよ、としておいて、その子がその種を秋に蒔いたとする。そして、芽が出なかったとしたら、それは、「子供が自分自身で秋に蒔いたら芽が出ないと体験出来、そこから、春に蒔かなければならないということを体得できるから良いことである」という事なんだそうです。それじゃあ、先人達がわざわざ「春蒔き」とした意味がないと思うし、そういった大切なことを知識として得ることによって、さらに上を目指した指導が出来るようになると思うのですが、どうでしょう?

 すなわち、「答えを出さない」にせよ、「春蒔きの種を秋に蒔く」にせよ、基本である、「答えを出すための段取り」や「春に種をまく」という約束をキチンと決めて、それにしたがって行動するという指導から、どんどん離れようとしているようにしか思いません。このように、基本知識がしっかりしないまま上の学年に進むと、さらに、その学習内容の理解に支障をきたすことになってしまいます。特に積み重ねの科目である「数学」に支障をきたすのはいうまでもない事ですね。

 実際に指導していて思うのだが、最近の傾向としては、子供達の計算力が劣ります。計算の手順や段取りを教えても、すぐに身につけられない子が多くなっています。以前であれば、一度教えたら、ほとんどの子がすぐに出来るようになった計算でさえ、今の子は身につけるのに時間がかかるんですね。これは、小学校時点の「約束や段取りをキチンと身につける」という指導に触れていないから、それを身につける方法が子供達の脳の中で確立していないんじゃないだろうか、と思います。


 ということで、ここでの結論。  「自主性」や「自立心」と「放任」との境界は、その行動が善や悪に基づく正しい約束事にのっとって、判断されているかどうかで見極めたい。

 そして、約束を決めてそれを遵守するという基本からはずれることによって、学力低下や犯罪の増加を助長するということになると考える。

 このように考えては、どうでしょうか?

閲覧数:15回0件のコメント

最新記事

すべて表示

説明は一気に最後まで

子供にキチンと話を聞かせられるようになったら、次のステップは「よどみなく最後まで説明しきってしまう」こと。 例えば、お母さん方でも、経験があると思いますが、誰かと真剣に話をしていたとき、ちょっと電話が入ったのでそちらに出てから、もう一度、さっきの続きを・・・と思ったとたん、「どこまで、話しましたっけ?」と言いだし、結局、その後は、あまり話しに乗り気にならず、白けた感じで終わってしまったこと、ありま

計算は「正確に、速く」

計算は「速く正確に」と言う言葉をよく聞かされていたと思いますが、これは、非常に重要です。現在の子供たちは、「思考力を強化」などと言われ、時間に余裕を持たせられる事が多いせいか、計算のスピードが非常に遅くなってきています。 ところが、こういった単純作業のスピードアップはとても大切なことで、天才と言われた野口英世やアインシュタインなども、実験や計算のような作業の速さと正確さは、他の追随を許さなかったと

説明ポイントは、一問につき一つが原則

お母さんが勉強を教えていて、子供さんが「分からない」と言ったり「分かった」とは言うものの、少し怪しい感じになっているときは、大抵、答えを出すまでの手順をいっぺんにやってみせて「この通りにやりなさい」というときに多いのではないかと思います。 実は、よほど、能力の高い子供さんでなければ、いっぺんに2つも3つもの勉強内容を覚えるのは、ちょっと難しいんです。だから、いざ、子供さんに問題を解かせて出来なかっ

記事: Blog2_Post
bottom of page