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  • markun5

「怒る」がいいの? 「叱る」がいいの?

<理論上、あり得ない話>

 教育理論と言われるものはたくさんありますが、正直、理論に破綻をきたしているものも少なくありません。そして、こういう誤った認識の上に理論を組み立てたところで、子供達にとって良いことにはならないんです。  ということで、教育理論の誤謬に踏み込んでみようということで、その第1弾として取り上げるのが、今回の「怒る」と「叱る」というテーマです。

 さて、教育関係者の中で一般的なのは「怒る」は感情的でダメ、「叱る」は理性的でオーケー、ということのようですが、こういう理論構築で果たして良いのだろうか、と疑問を呈することからスタートですね。


 まず、1つめですが、基本的にこういう理論の場合「この理論で不都合な事が起きないか」という検証がしっかりなされていなければなりません。要するにダメ教師にいいように利用されてしまえば、全く体をなさない理論になってしまうからですね。  で、例えば、この場合「やたら説教の長い教師」というのを想定しましょう。こういう教師は、ほぼ間違いなく「私は、子供達になぜ叱られているのかをきちんと説明しているので、怒るではなく叱るでやっています」と言い出すでしょう。でも、こういう教師っていいんでしょうか? その他、こういうのに当てはまりそうでダメな行為というのは、まだまだ存在しますが、そういった点について、検証されているんでしょうか?   これは、数学でいうところの「命題」です。命題については、必ず「真」か「偽」かを判別しなければなりません。「真」である、と言うことにするなら、しっかり「反例」がないかどうかを検証し、「真である」という事を確認しなければならないんですが、おそらく、これを言い出した人は、こういう検証をせず、ただ、聞いた感じが良いから、という程度で提示したのではないか、と思うわけです。そして、こういう理論構築を行っているうちは、まともな理論は作れないのです。


 2つめです。「叱る」に理性的、という意味はあるんですか? ということです。そこで、実際に辞書を引いてみてください。「叱」の項目を引いてみると分かると思うのですが、そこには「鋭く相手を威嚇する」とか「鋭く相手をののしる」という意味が記載されているだけで、どう考えても理性的とは思えません。犬を追っ払うときに「シッ!シッ!」という事をすると思うのですが、この「シッ」というのは漢字を当てはめると「叱!叱!」なんですね。要するに音の鋭い様を表した「シッ」というのが語源ということなんです。  さて、こういうふうに、元々ある意味を勝手に自分の都合のいい意味に切り替えて、勝手な理論構築を行うことを「概念のすり替え」といって、論理学が極端に嫌うことなんですね。そして、こういう傾向は他の「自主性」「個性」「生きる力」、最近では「単元を貫く言語活動」でも、まかり通っているんですね。要するに、教師個人が勝手な解釈で、勝手な事をやり出す一番の原因となっているんです。これが教育理論なのか、と目を疑うばかりの状況を呈しているんですね。


 そこで、実際に具体例を出して、この「怒る」「叱る」が適切かどうかを判断してみましょう。  例は「宿題を忘れた子の対応」です。


 さて、子供が宿題を忘れた場合、怒る、叱る、ということを行うわけですが、この場合、なぜ、怒る・叱るを行うんでしょう、その第1義は何ですか? と問われたら、これは当然、「今後、宿題を忘れないようにさせる」です。いくら「私は、きちんと叱りました」「宿題の大切さを話しました」「忘れ物をしないように注意しました」といったところで、子供達の宿題忘れが直らないようなら、それはハッキリ言って「全く無意味な行為」です。これを「叱る」が良いことです、ということにしてしまったら「私は叱ったけど、宿題忘れが直らないのは子供達のせい、家庭環境のせい」ということにされてしまいませんか? 大丈夫ですか? こういう言い訳に「叱る」を使う教師が出てきませんか? こういう検証を行っていますか? 

 宿題忘れを0にする方法は、その先生によっていろいろあると思いますが、結果として「宿題忘れを無くす」ということが出来ているかどうかで判断すれば良いことであって、その際に「怒る」「叱る」の区別は全く関係ありません。  ですから、教師であれば「怒る・叱る」という方法云々ではなく、結果として「子供達が宿題をきちんとやってくるようになるかどうか」でその対応力を判断すべき。それがプロです。そして、もっと言うなら、そういう人たちが言うところの「怒る・叱る」を場合によって使い分けるくらいの力量が求められる、と思っていていいでしょう。

 また、子供達の心理などを考えた場合、例えば、今まで優しい先生が、ガッチリ大声を出して怒ったら「これはまずい」という気持ちになる子が出てきます。要するにギャップですよね。毎度毎度、同じ叱り方ではなく、変化を付ける事の方が、より子供達が動き出しやすくなる、ということです。こういう心理的な操作も考えていなければならないでしょう。

 また、家庭での例をもう一つ挙げますが、「てめえ、このやろう」という乱暴な言葉使いで子供を怒るのは良くない、という場合、これは「怒る」「叱る」の問題ではなく、単に「言葉使い」の問題です。

 元来、怒る・叱るというのは、子供達の教育の一環として学校や家庭で行う場合、社会性をしっかり身につけた大人が、社会性の乏しい子供に対して注意を与える、要するに基本的には「上から下に向かって行う行為」です。ですから、同等の立場の人間が喧嘩しているような言葉使いでは、怒る・叱るに該当しないんです。子供を怒る・叱ると言うのは「こんなことをしちゃダメでしょ」という上から目線でやる行為なんです。最近では、何でも子供の目線で〜なんていう事を言い出す人もいますが、これでは子供の教育は出来ないんだ、ということです。子供が悩んだり、困ったりしているときは、子供の目線までおりていって話をするということが必要になると思いますが、いざ「怒る・叱る」となると、これは大人という上からの立場で子供を怒る・叱るということをしなければならないんです。


 そして、最終的に、学校ではどうだ、家庭ではどうだ、と何でもかんでも「怒る・叱る」の理屈に結びつけて、結果、概念がごちゃごちゃになって収拾がつかなくなる。どこからどこまでという線引きが無いのが、学校教育の理論なんです。「あれも生きる力だ、これも生きる力だ」「あれも自主性、これも自主性」。こうやって、自分の都合の良いようにグチャグチャにしてしまうのが、教育関係者の悪い癖なんですね。


 ですから、きちんとした概念のある言葉に関しては、それに準じた形で理論構築をすること。勝手に概念を変えない。どうしても概念を与えなければならない場合、それは、きちんと線引きをして、何についてどのようなことを表すのか、この点をしっかりさせる必要があるんです。これを突き詰めていくことが、いわゆる「教育理論改革」なんです。

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