これも2012年に前のホームページに書いた内容です。
当時は、学校側ではこのような考え方が主流になっていました。そして、内容を見てもらえれば分かると思いますが、結局、学力が上がらない、ということになります。現在では「学力」の事が取りざたされ、学力低下が当時ほどでは無くなっていますが、それでも、根本的な考え方は変わっていないように思っています。
<新自由主義がもたらすもの>
昨日の民主党代表選に向けての各候補の演説の中で、原口氏が言っていたコメントの中に「新自由主義を浸透させたい」という主旨のものがありました。で、この「新自由主義」なんですが、自分もこのコーナーで一度コメントをしたことがありますが、教育の現場にこれが浸透すると、かなりまずいのではないかと思うんですね。
というのは、この新自由主義のスタンスというのは、簡単に言うと「一通りの事は教えますが、勉強する、しないは強制しません。それは、あなた方の自由です」というものだと思ってください。結局、子供達が勉強からドンドン離れていってしまうんですね。そして、その問題点を浮き彫りにしているのが、現役教師のお話で出てくる「学ぶ主体」「学ばない主体」という言葉なんです。
そして、タイトルに書いた、この「学ぶ主体」「学ばない主体」というのは、子供達を差す言葉で、これも簡単に言うと「学ぶ主体〜きっかけを与えてあげると、自ら学んで行く子供」「学ばない主体〜きっかけを与えても、自ら勉強していかない子供」という意味だと思ってください。そして、その問題点というのは、文部科学省のカリキュラムは、子供達が「学ぶ主体」であるということを前提として作られている、ところが、現場では、子供達は「学ばない主体」として存在しているため、現行のカリキュラムは実状に合っていないんだ、ということなんです。具体的に言うと、何か興味を引くようなきっかけを与えてあげたとしても、そのときは楽しいと思うだけで、その後の勉強につながらず、結局、ものにならないということなんですね。
で、きっかけを与えるということであれば、これは、学校で用意しなくても、民間で専門的なところがたくさんあって、もちろん、キッザニアやインターンシップなどもその一つだと思います。でも、そこで楽しいと思っても、その後の勉強につながらなければ、何の意味もない、ただ、楽しいだけでお終いということになってしまうんですね。釧路の教育研究センターのレポートにもあったように「つかみはオーケーで中身のない授業」というのも、その後の勉強につながっていない〜楽しいだけでお終い、という授業の方向性を批判しているものと考えていいでしょう。
そこで、本当に真剣に子供達の事を考えている教師は、そのきっかけの後の「勉強に変換させる部分」「子供達にしっかり身につけさせていく部分」をどうしたらいいか、というところで非常に悩んでいるんですね。
本来、子供達に物事を身につけさせる場所というのは、学校と家庭でしょう。その学校が、新自由主義を盾にして、身につけさせるというところから、離れてしまうと、子供達が物事を身につける場所は「家庭のみ」ということになります。学校側からも未だに「子供達が勉強するのをサポートする場」という感覚のコメントが出てきていますし、あくまで身につける場所は「家庭」、学校はそれをサポートする〜「勉強する、しないは家庭の責任」という、いわゆる「新自由主義発想」のコメントが出てきている訳で、これでは、子供達には勉強内容が身につかずに終わってしまう事になるだろうと思います。
「学ぶ主体」として、何かきっかけがあり、その後の勉強についても「楽しい」と思って続けられる子は、残念ながら「ほんの一握り」、大抵の子は「きっかけから、その後の勉強につなげていく」時点で、かなりの抵抗があるものなんだという認識を共有しておかなければなりません。そして、本当に大切なのは「その後の勉強につなげていくことなんだ」という事なんだ、そのためには、教育と新自由主義とは相容れないものなんだ、と思ってください。
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