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「いじめ」について考えよう

 2003年に、前のホームページに書いた内容です。いまだに話題に上る「いじめの問題」。テレビのニュースで取り上げられたときにだけ、その時に思ったことを述べるだけではなく、それについて、一旦、しっかり考えてみようという主旨です。


<暴力・恐喝は、いじめというより「犯罪」>

 いじめの問題というとその定義が広く、一口にいじめと言ってもその言葉の捉え方は人によって差のあるところ。下校時に待ち伏せされて「金を出せ」と言われたり、トイレに連れて行かれて「気に入らない」という理由で殴られたり蹴られたりするものから、授業中や休み時間に「からかわれたり」「嫌がらせ」をされたりするレベルまで様々。お母さん方から聞く話でも「いじめ」のレベル差は歴然で、なかなか対処が難しい。

 ただ、自分が思うに、「暴力・恐喝」のたぐいになると、それは、いじめの度を超えた「犯罪」ではないかと思うのだが、どうだろうか? そして、それを防ぐのには警察でも導入している「軽犯罪をきちんと取りしまる」という方式が望ましいのではないかと思っているのだが、どうだろうか? このくらいは罪にならないだろうと思われる軽微なものをきちんと取り締まる事によって重大な犯罪を誘発する環境を作らないという方法、実は以前から学校で取り入れられていた方法で、「服装の乱れのチェック」や「ゲームセンターなどに出入りしない」という事、「授業中の私語を慎む」と言ったことなど細かいところから指導しなければ、青少年のこういった犯罪行為は増大していくと思っているのだが。

 そして、こういった犯罪行為になってしまえば、これは、加害者が明らかに悪く、加害者側の親も納得できるのだが、もっと困るのは「単に、嫌がらせをされたり」とか「遊び半分でからかわれたり」すること。加害者側の親にとっては「そのくらいの事」という感覚で考えてしまいがちなのだが、被害者側になると「深刻な問題」になっている場合も少なくない。また、逆に「被害者となっている方が、実は単に子供を甘やかして、子供の言いなりになっているだけ」という場合もある。どこで、一線を引くか、どこで判断するかが非常に微妙なのだ。


<どこから「いじめ」?>

 そこで、ここでは、いじめについて「いったいどこからいじめとして考えなければならないか」というところに話を進めて行きたい。  そして、この基準が一方的に偏らないようにするためには、加害者側と被害者側の双方から検証してみたいと思う。  まず、被害者側からの設定なのだが、これは、実際に例のある「セクハラ」と似ているのではと考えている。どういうことかと言うと、これは女の人が仮にお尻を触られたとしても、触った相手が「そういう行為を許せる相手」であれば「セクハラ」にはならないだろう。ところが「そういった行為を許せない相手」にされたとたんに「セクハラ」となってしまう。すなわち「行為そのもの」が問題なのではなく「被害者側がどのように感じるか」が問題なのだ。したがって、被害者側が「いじめ」と思うのであれば、それは「いじめ」と考えたい。

 そして、加害者側からの設定は「どのような意図で行為に及んでいるか」を問題にしたい。  これは法律に例を取ると「殺人罪」「傷害致死罪」「過失致死罪」のように被害者が死んでしまったとしても、加害者側の意図でその犯罪の名称が違い罪の度合いにも違いがあることと同じで、「最初から殺そうという意図があれば殺人罪」だし「痛い目に遭わせてやろうという意図で結果的に死んでしまった場合、傷害致死罪」となるように、最初の意図の部分に問題があるのだ。  これをいじめに当てはめると「相手に嫌がらせをしよう」という意図があればこれは「いじめ」であり、「まったくその気がなかったが結果的に相手がイヤな思いをしてしまった」という場合は「いじめ」ではないと判断する。

 そして、この「被害者側の見解」と「加害者側の見解」をつきあわせて検討するのだ。

 具体的には、「被害者側がイヤな思いをして、加害者側にイヤな思いをさせようという意図がある」ならば、これは紛れもなく「いじめ」と考える。また「被害者側がイヤな思いをしても、加害者側にイヤな思いをさせようという気がない」のならば、これはいじめではないと考える。ただし、後者の場合「注意は必要」。「相手がイヤな思いをしているのだから、これから先、こういうことをしてはいけない」という事をきちんと話して聞かせることだ。こういう注意をしていく中で加害者側に「相手の気持ちを考える」という心が芽生えてくれれば、災い転じて福となるように、双方にとって利益があるだろう。そして、そういった注意をしたにも関わらず、まだ、嫌がらせの行為が続くのならば、それは「相手がイヤな思いをするという事が分かっていて、そういうことをする」のだから、加害者側に「イヤな思いをさせる」という意図があると判断出来る。すなわち、「いじめ」に当てはまる事になる。


 また、イヤな事から逃げようと「いじめられている」と嘘をついているような子であれば、学校の先生からみれば、これは一目瞭然であるし、何か悪いことをして、それを注意されたことを根に持って「自分はいじめられた」と称しているような、明らかに「いじめ」と違う主張をしている子についても、学校の先生はお見通し。もし、親として不安であるならば、これは学校の先生ときちんと話あうのが一番。「自分の子供が嘘をついた」「自分の子供が悪いんだ」と思いたくないのはやまやまだが、だからといってそのまま「いじめられている」と主張すれば、それは加害者に仕立てられた子供の方が迷惑。そして、嘘がまかり通ると子供が思ってしまったら、それから先、その子供は手が着けられなくなっていくのだ。


<判断基準は明確か?>

 さて、上記の判断の仕方には異論のある方も多いのではないかと思う。ただ、こういった微妙な判断が求められる場合「ケースバイケース」などとのんびりしたことは言っていられない。学校の先生であるならば「父母を納得させられるようなきちんとした話」が出来なければならないし、そのためにある程度「自分の判断枠」は明確にしておかなければならない。もちろん、子供たちに話すことも必要だろう。「こういうことをした場合、先生はこうします」と言うようにあらかじめ生徒に話をしておくことができるなら、怒られる側も納得出来る場合が増えるだろう。

 また、親の立場で考えるとしても、自分の子供がいざ「いじめ」をされたり、したりした場合、学校の先生と話をするときに何を基準にして対応しなければならないかという事が問題になると思う。加害者側が「こんなことぐらいで・・・」などと思っていても、被害者側が「自殺未遂」など起こそうものなら、そのとたんに加害者側が「極悪人」扱いになってしまうだろう。決して安易に考えてはいけないと思う。

 ある学校の先生は、実際に起こっているいじめの問題を「子供たちに自主的に解決させる」ということで、ホームルームで加害者・被害者双方に話し合いさせたらしい。もちろん、結果は明白。善悪に関係なく、そのクラスで勢力の強いものが勝つに決まっている。誰か強い味方がついてくれない限り弱い立場のいじめられている側は、余計に苦しい立場になってしまう。こんな解決方法を採ろうと思うこと自体、まさに愚の骨頂。

 それより何より、道徳の時間でいったい何を子供たちに学ばせているのか。  自分たちの子供の頃は「自分がイヤだと思うことは、他人にしてはいけないよ」ということを繰り返し教えてもらったものだが、現在、こういったことは、どのように指導されているのだろう?


 最近、人間関係がうまく作れず、悩んでいる人も多いと聞く。学校生活で悩んでいる子も多いだろうし、昔では考えられないような「精神的に弱い子」も多いように思う。「こんなことで」と思うような事でも、子供たちにとっては真剣である場合も少なくない。であれば、せめて予見できる事柄への対応法はあらかじめ準備して、子供たちが元気良く学校に通えるように配慮していきたいものである。

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